屋上

それはコロナの影響のことであり、新しい場所に住むことであり、知らない人と話すことなのだが、環境が人を変化させる、というのはここ数日で身に染みて感じたことだった。その証拠に、突然長い文章をこうやって書き始めているのだが、それは、気分転換に海外に行って、いつもの生活に戻って精を出すというレベルの話ではなくて、知らない土地と人と共に新しい何かをやっていくということの、インパクトの大きさと大切さを教えてくれるものかもしれない。自分が見ていたものが変わったり今まで支えていたものが少し外れると、見えている材料だけで判断するようになって、今までの考え方の余分な部分が掃き出されていく感覚がある。

部屋の窓を見ていると、どこへ行こう、どこへ行ってやろうかという気にさせられてしまう。知らない街、知らないビル、知らない屋上、知らない凹凸。海外旅行に行ったときも感じたけれど、どんなに自分が知らない場所でも、昔からそこには必ずひとが住んでいて、それぞれの生活があり、僕はそこに放り込まれたのである。国内なら、海外旅行の時ほど強烈なものはないが、見慣れているスーパーやレストランやコンビニなどの看板と、見慣れない店の配置や人の動きとの間に、違和感が生まれる。

安心な僕らは旅に出ようぜ。はたから見れば、本当は何もかも安心なんだけど、当の本人はいつもそわそわしていて、何かするべきなんだろうか、何か重大な漏れがあるんじゃないかと逡巡している。些細なことを除けばそう思う頃にはノルマはこなしてしまっていて特にあまり思い浮かばない。ゲームのどうぶつの森なら、その日やることが大体終わってしまったら、時間を進めてイベントを発生させられるけど、それはゲームだからであって、僕はそのイベントを明日まで待たなければいけないのでした。今の状態を直接言い換えれば「待ちきれない」であり、その意味は大抵「楽しい、ワクワクする」だけれど、僕が100%そうかと言われればどうだろう。どちらかというと、早くこの状態を安定させたいというか、次はなんなのだろう、何が来るんだろうという、新刊の小説を読んでいるような気持ちだ。なんだ、楽しみなんじゃないか。

というか一応自分なりに楽しんではいる。以前となんらやることは変わらないのだが、散歩して、ラジオをつけて、本を読んで、ネットを見て、という感じだ。書いていて気づいたけれど、何々を感じたとか、そういう表現が我ながら多い。フラカンの曲で最後に「感じたことが全て」とあった。思い切り泣いたり笑ったりしようぜ。風が強くて、ガラスをばあんばあんと揺らしている。ラジオから流れる普通のお便りが閑散とした部屋を満たす。ひとが笑って喋っているのを聞くと落ち着く。ベッドに横になる。落ち着いたら寝てしまった。外が暗くなり始めたので、カーテンを閉め、部屋の電気をつける。丸い蛍光灯が部屋全体を照らす。ああこれは、一人暮らしの白さだ。本来こうあるべき姿に私は戻ったのだろうか。新しい場所に行く時は、足元を見なければいけない。やりたいこともいいけれど、少しずつできることから。