優先順位について

高校生のころに読んだ数学者の森毅の著書の中に、分からないということを飼いならせ(原文そのままではない)ということが書かれていて、読んだ当時は言葉の響きがかっこいいなと感じ、今でも頭に残っていた。

時は経ち今読んでいる資料には、5W1Hとこまめな報告を大切にしろ、ということに加えて、森先生の著書と同じようなことが書かれている。それには

1.不安や嫉妬や恐怖といった自分の今抱いている感情に名前をつけて頭の中でそれを自分に向かって吠えている犬だと考える。

2.その犬が全く根拠のない理由で吠えている場合はその犬を追放、根拠はあるがその根拠に変化が必要な場合は訓練、その根拠通りだと思う場合は受容する。

とあり、これでうまく自分の感情をコントロールせよとある。

その後はそれを教訓化するため、被害者意識からではなく、静かに内なる声に耳を傾け、大切に思えたもの、これをやっている意味、サポーター、学び、過去との類似点を問いかけろとある。

・自己効力感(自分のこれまでの実績など)

・自分の強み(人に言われた自分の強みなど)

・サポーター(上司の状況の受容)

・感謝(仲間への感謝をすることで自分の感情をリセットできる)

なるほどと思うのは、犬という動物を持ち出して心理と向き合うというやり方だ。気持ちを手なずけるというのは、飼いならせとほぼ同じ意味だと思うが、分からないという感情と、この資料が扱うことが、同じかどうかは"分からない"。ただ表現が似ていると思い、あの文章を思い出したのだった。

ただ、このような心理的な自分の落ち着け方にも限界がありそうだ。人間は自分の意思で行動を変えられると信じているし、だからこそあんなに自己啓発本が本屋に置いてあるわけだけれど、あっなんか変かも、と思ったとき、それは気圧が低いとか、嫌な記憶を思い出したとか、食べすぎでお腹を壊してたとか、やりたいことできてねえとか、そういう不可抗力で出来上がってることが、まあほとんどだ。自分の意思と、それに伴う行動で変えられるのはほんの一握りのことだろう。今日も12時くらいに寝て7時くらいに起きたのになんだか眠かったので、そういうのが分かったら次の日はどーんと時間をとって本を読もうと思う。

不可抗力の話でいうと、人と喋っていると時々的外れのことを言ってしまったのか、うーん、みたいな表情をされてしまう。俺もそうだよね〜と思ってしまう。言葉のやり取りはすぐ始まってすぐ終わっちゃうからと思って、ぽん、と喋る。でもなんか違ったっぽい。そういうのは大抵、会話が終わったあと自分の部屋でぼーっとテレビを見ているときや、トイレに入っているとき、シャワーを浴びているときにふっと頭に現れる。逆に、というか同様に、自分が聞きたいことはそっくりそのまま相手の口から発せられないので、自分で自分に言うしかないんだけれど、でも奇跡的になんかうまくいって、相手の口から今欲しい言葉が流れてきたら(それだ!ありがとう!)と思う。

さっきも人と喋ってきて、自室に戻ってこの文章を書いている。喋ってきて、と書くと、なんでそんな仰々しく書くんだとか思ってしまう。というか、全ての文章がどうだ!みたいなカッコついた文なので、削除してしまいたいと思いつつ、書いているのは未来への自分に向けてなので残しておきたい。なんか文章をこうやって書いていると、頭の中に無限に生えた自分の背丈ほどある雑草をばっさばっさとなぎ倒しているような絵が浮かんでくる。

部屋にはラジオが流れていて、知らない音楽が難なく聴けるからいい。家電量販店でテレビを買おうと見本を見ているとき、放送されてるテレビの番組はなんだっていいように、ラジオがついている時は大抵同時に別のことをやっている。それと似ているのだろうか。優先順位を絶えず考える日々だが、そのとき、優先順位を考えるということの優先順位は、果たして高かったのだろうか。衝動的にぼーっとして、コーヒーをコップに入れ好きな本を開き、飽きたら寝てもいい。そんな毎日が目標だ。