思考の岩盤

自宅待機中はアスリートの基礎練習のようにパソコンで勉強せよ、みたいな毎日で、それを忘れると終わらないバッティングセンターの中にいるような、でかいプロジェクトに関わっている色んな人のまなざしが、バットを構えている自分に注がれているような、なんとも窮屈な感覚に陥ってしまう。仕事というのは余りに評価が多いので、そう感じたときはなぜこれをやるのかに立ち戻らなくてはならない。勉強とはいい感じに進路を決め、いい感じに知恵のある人と交流するためにあると思っている。この”いい感じ”というのは、ここを過ぎたらゴールというのがないのが厄介で、教養があるとか、人間的に厚みがあるとかそんな言葉に置き換えられるのかもしれないが、要は決して監視されたり、誰かの要求に応えるだけのものではない。自分で問題を設定して難易度を下げろと自分に言い聞かせている。

問題が解けると楽しいのだが、必要に駆られてその楽しみを忘れ、解けない問題ばかり見ると、妙に焦って手につかなくなる。これが度を過ぎてコピペばっかりになると、何にも自分で考えなくてよくなるので気をつけるようにはしている。学ぶは真似ぶから来ているので、語源的にも真似て慣れるのは正当だが、やってて楽しくないなと思ったら、それは自分で考えたことになっていないから駄目ということにして、もっと易しく設定してみる。仕組みはゲームと一緒だが、プレイヤーかといわれると自分はそこまでゲームに忠実でありたくないとも思う。どうやら物事を遅くやることに美徳を感じるらしい。どこかのタイミングでこのやり方で良かったんだ、と思いたいから、目に見える結果も欲しいところだが、そのたびに、そもそもそれは本当にやりたいことだったか、とか、なんでそんなに評価されなければいかんのだと、思考の岩盤とも言うべき反抗が誰かが作ったルールをにらみつける。

答えを見て反復する。学生時代成績の良かった人はこれが出来ていたのかと、改めて今になって感心する。先生に、出来ない問題をうんうん唸って時間をかけるのは賢明でないと教わったことがある。すぐ模範解答を見て次に行く勉強は苦手だった。今も厳しい。厳しいけれど、やはりそれが求められているのだと痛感する時が何回かある。昔と同じく身についている気がしない。しかしどんな方法だろうが何事も1つのことが身につくためには多くの条件が揃わないといけないし、それにはとても時間がかかることも知っている。何も焦らずはじめから出来ることをやればいいのだが、昨日みたいに睡眠がよく取れていないとヘンに落ち込んでよく分からないことを考えるようになる。このルーティーンにもまた付き合っていくしかない。別に綱渡りしているわけじゃないから失敗は当然で、反省しすぎるのも考えものだからそういうときはさっさと寝るべきだ。やっていることに脈があるのか、血が通っているのか、確認できるのは自分だけだ。