コナンの映画

・日光を浴びるためにベランダに出ると、カーテンの開いている部屋とそうでない部屋が見えて、住んでいるのが自分だけでないのを確認できる。スマホを落っことしそうで怖い。「あの一つ一つに人の暮らしがあって 夢も嘘も現実もあの街の一部なのさ 僕もあれを見ているとなんだか泪がでるよ 生きている人たちの営みの光だもの」世田谷ピンポンズの『紅い花』通りの風景である。

・一週間が終わった。ずっと生活を整える作業をやっていて我ながらよく行動したと思っている。いかんせん人に会わないのでこうやって文章にする時間が必要だ。

・ずっと部屋にいると曜日の感覚がなくなるから、金曜はカレーを食べるといいという情報を見て、昨日の夜にレトルトカレーを食べた。中辛。レトルトのおいしさだった。

・諸事情でW-Fiを使えない海外旅行になったとき学んだ一番のことは、人に聞けば大抵のことは分かる、ということだった。自分で自分を支える今になってもそう思う。これからもそうなんだろう。

・最近出来た友達に、なるようになる、と、類友が信条だと聞いた。それを聞いて類友だと思った。

・友達と大人になるってどういうことなんだろ、みたいな話になって、その通りかどうかは忘れてしまったけど、それは自分の老いを受けいれて、朗らかに諦めながら、制限されていく自分の中で、できることをやっていくことだよ、と答えたような気がする。付け加えるなら、人の突き抜けた好きにはどうやっても勝てない、ということだ。

・ニュースで吉田麻也が置いていかれないようにと筋トレしてて、全くその通りだな〜と思った。スキルを身につけたい。

・スーパーマーケットが好きになった。本が必要だと思った。

・テレビが届いてコナンの映画を見ている。昔はあんまり見ていなかったけれど、じっくり見てみるとなんだかとても面白い。アベンジャーズの最終回が世界的にヒットしていたときに劇場版のコナンが日本だけ1位だったのも、なんとなく分かった。ときどき、それはありえへん、みたいな軌道で人間、弾丸、ボールが飛んでいくけれど、アニメの力は見ている人にそこを納得させられるところだ。

・ずっと一人でいることと、部屋にいることはいけない。だから、オンラインで連絡を取ったり、食料を買うついでに少し散歩したりと、そういう側面からも健康に気をつけるようにする。テレビを久しぶりにつけたら、なんだかほっとしたと同時に、外出自粛というテロップが出ていた。それまでラジオを聞いていたからか、それぞれのメディアに違う大変さの出し方を見て取った。

・1日がとっても早く過ぎていく。生活を営むことに時間を割くので、営まなくていい暇な時間があまりない。今の目標は自由な時間を作ることだ。実家に帰るとそれがあるので安心する。何でも早めに挑戦するほうが選択肢が生まれるんだろうと思って、テトリスみたいになんでも詰め込んでいったら、ちょっと疲れてしまった。快い達成感と肩こりがある。考えが行動をときどき制限するけれど、制限するために考えが必要なことがある。

・社会に出るとあんまり勉強する時間なくなるからね、と言われていたのは、結局自分で自分を営んでいくことに時間を割くからだ、と理解するのに、20年かかった。

・本を読んでいると、とても安心する。ありきたりだが、ググって情報を仕入れたりLINEの既読を追うことは、常に最新版を摂取するということで、つまりスマホを手放してその今に追い抜かれると、最新版じゃない自分に不安を覚えてしまうってことなんだろう。本はもう何年も前に生きていた人の考えを読むということで、楽しい。なにより本のページには画面の変化がないから疲れない。

・コナンの後にNHKドキュメント72時間の保育園特集を見た。人一人が生きていくのに必要な膨大なエネルギーから少し離れて、たまにはサボって生きていこうと思った。高校生のころを振り返ってもそう思う。部屋で踊る。食べて寝てれば生きていける。もっと何か言いたいことがあるような気がするけど、速さも大切なので、追々あとで残します。

屋上

それはコロナの影響のことであり、新しい場所に住むことであり、知らない人と話すことなのだが、環境が人を変化させる、というのはここ数日で身に染みて感じたことだった。その証拠に、突然長い文章をこうやって書き始めているのだが、それは、気分転換に海外に行って、いつもの生活に戻って精を出すというレベルの話ではなくて、知らない土地と人と共に新しい何かをやっていくということの、インパクトの大きさと大切さを教えてくれるものかもしれない。自分が見ていたものが変わったり今まで支えていたものが少し外れると、見えている材料だけで判断するようになって、今までの考え方の余分な部分が掃き出されていく感覚がある。

部屋の窓を見ていると、どこへ行こう、どこへ行ってやろうかという気にさせられてしまう。知らない街、知らないビル、知らない屋上、知らない凹凸。海外旅行に行ったときも感じたけれど、どんなに自分が知らない場所でも、昔からそこには必ずひとが住んでいて、それぞれの生活があり、僕はそこに放り込まれたのである。国内なら、海外旅行の時ほど強烈なものはないが、見慣れているスーパーやレストランやコンビニなどの看板と、見慣れない店の配置や人の動きとの間に、違和感が生まれる。

安心な僕らは旅に出ようぜ。はたから見れば、本当は何もかも安心なんだけど、当の本人はいつもそわそわしていて、何かするべきなんだろうか、何か重大な漏れがあるんじゃないかと逡巡している。些細なことを除けばそう思う頃にはノルマはこなしてしまっていて特にあまり思い浮かばない。ゲームのどうぶつの森なら、その日やることが大体終わってしまったら、時間を進めてイベントを発生させられるけど、それはゲームだからであって、僕はそのイベントを明日まで待たなければいけないのでした。今の状態を直接言い換えれば「待ちきれない」であり、その意味は大抵「楽しい、ワクワクする」だけれど、僕が100%そうかと言われればどうだろう。どちらかというと、早くこの状態を安定させたいというか、次はなんなのだろう、何が来るんだろうという、新刊の小説を読んでいるような気持ちだ。なんだ、楽しみなんじゃないか。

というか一応自分なりに楽しんではいる。以前となんらやることは変わらないのだが、散歩して、ラジオをつけて、本を読んで、ネットを見て、という感じだ。書いていて気づいたけれど、何々を感じたとか、そういう表現が我ながら多い。フラカンの曲で最後に「感じたことが全て」とあった。思い切り泣いたり笑ったりしようぜ。風が強くて、ガラスをばあんばあんと揺らしている。ラジオから流れる普通のお便りが閑散とした部屋を満たす。ひとが笑って喋っているのを聞くと落ち着く。ベッドに横になる。落ち着いたら寝てしまった。外が暗くなり始めたので、カーテンを閉め、部屋の電気をつける。丸い蛍光灯が部屋全体を照らす。ああこれは、一人暮らしの白さだ。本来こうあるべき姿に私は戻ったのだろうか。新しい場所に行く時は、足元を見なければいけない。やりたいこともいいけれど、少しずつできることから。

20200402

新生活が始まっていろいろドタバタしている。とりあえず次の3,4日を見据えつつ1日を生きていっている。初めてのことが多く生活に慣れていないからか、街を歩く人が一人で生きているということになんとなく偉大さを見いだしたり、今まで見えていた窓の明かり、当たり前のことがいとおしく目の前を過ぎ去っているのを見る。3月と4月であんまり劇的に変わったわけでもないが、いかんせん余裕がないので、自由に趣味に時間を費やして、しっかりと味わうことは、今はちょっと厳しい。まだ始まって2日の「新」生活が自分を何者かにしようとしている。こんな僕をひとは同情をもってとりあえず見守ってくれはするのだろうか。こういうことを「不安」というのだろうか。不安というには余りにも簡単な生活かもしれず、それゆえ難易度が高くなるといわれている数年先を想像する。まるで世界の果ての滝に落っこちる前の漂流者のようだ。これはいいすぎか?

部屋では前より時計を見ることが多くなって、時計の針がゆっくりと動いていくのを見ている。そうやっているうちにやらなければいけないことがやってきて、とりあえずやってみる。終わったら針は動いていて、時間が経ったのだと思う。そしてそんなにはやく経たなくてもいいじゃないかと、すこし反抗的に思っていた。時計の横にある窓の色合いも朝の白とは違うものになっていて、時間が経っているんだから色だって変わるでしょ、という、当たり前の事実を提示してくる。窓、おまえもか。おまえも僕に、時間が経って、朝が昼になり、僕が終わりの見えない海へこぎ出していることを教えてくれるのか。僕は僕にしか聞こえない鼻息をたてて、パソコンを閉じる。

これでいいのだろうか。いいよ、って言ってくれる人は、それは僕のことなのだが優しい人だ。大抵、少なくとも今に関連される未来のことまで保証はしてくれない。そのいいよ、には何の意味もない。僕が望んでいるものではない。望んでいるものは、ゆっくりでいいんだよ、という言葉と、それであなたが思うよりゆっくり動いてしまう僕への許しに近い諦めだろう。人によっては怒られてしまう今日のこの怠惰な朝のおかげで、どっかの未来の僕はしくじってしまうのか。自分で書いていておかしいと思うのだが、今の自分の考え方が気に入ってるし、変化して欲しくない。とりあえず周りが変わってくれ。ただ周りというのは、自分から見える周りであって、すなわち自分が変化すれば、世界も変わるのではないのだろうか。というか、何を持って変化と言うのか、その境界線はその瞬間が来るまで曖昧だ。あなたの要請に完璧に応えられそうにない僕だ。待ってくれたらなんか変化するかと言われればまた?がついてしまうのだが。

しくじりたくない、おこられたくないという感情からくる鋭い目は、本当はもっと余裕をもったっていい、未来にはなんにも影響を及ぼさない現在をぐるりと見渡して、なんとか脳と胸を安心させようとする。いつだってそうだった。でもその目は、無力だ。常に酷かも知れないけれど、僕よ、肩の力を抜いて、歯を食いしばらないでほしい。なぜなら未来は未来で別に来るし、反省はいつも他人に見られない、自分のなかで自分の言葉で語られて、他人に過去を指摘されれば、僕の過去を弁護してくれる人はいないし、反論する元気もない。こうした方がいいよ、という模範解答に確実にたどり着く助言が欲しい。でも、では今に肩をすぼめている自分に聞くけど、そもそも模範解答とはなんなのだろう。それもこれを書き終わって落ち着いたら、ころっと変化しているでのしょう。言いたいことはこれで伝わっているのだろうか。

他人には他人の人生があってその上で動いてまた違う人に作用する。僕は自分でさえコントロールできないのに、他の人の生き方や習慣をどうやって変えていくなんてのは無理な話だ。人は僕らに僕らが「4月中はやったってことにするよ」と言った。そんな今の中で、自分は「やったのだろうか?」と問うことの面白さよ。自覚せよと僕らにおっしゃった人は、僕が(もしかしたら僕以外の人のあなたも)いかに自分に無自覚で、こんなにも文字にすると時間がかかってしまう面倒な生きものかをまず自覚するべきだが、それでもあなたがそう発言したことの仕方なさというか、しょうがないよねというほんのりとした納得も私の中にはあるんだと、今整理していたら気がついた。別に何にも責めたり批判したり悪く思ったりしているわけではない。ただ生きていこう。これからもその時々で、この背後であまりに自然に動いているパズルピースを忘れてしまって、なんでじゃ、とか、知らんわ、とか思ったりするのだろうけど、そんなときは自分の言葉でこの連鎖を断ち切ることなく翻訳してみよう。今よりゆったりとした生活があると信じて。

巻き添え

 AmazonPrimeでコラテラルという映画を見た。リムジン・サービスの会社を持つ夢に向かって仕事に励むタクシードライバーの主人公マックスが麻薬組織に雇われた殺し屋ヴィンセント(トムクルーズ)を客として乗せてしまい事件に巻き込まれていくのだが...というあらすじの映画である。印象的だったのは映画開始から半分くらいで後部座席のヴィンセントから運転席のマックスへ投げかけられる、親は自分の欠点を子供の中に見いだしてその欠点を咎めるんだよ、というセリフだった。たとえ子が親にどんなに正しいことを言っても親からそれがまさに親の欠点に見えてしまったら子はどうしようもない。むしろ親から言われる注意は代々受け継がれる一族としての特徴として前向きにとらえるべきだったと今更ながら感じてしまった。

ニュースを見ていると行動がどうしようもないことの連続で決定されていくのを思い知らされ自分に出来るのは手洗いうがい外出の自粛しかないと感じる。新生活が始まる今になって望んでいない未来が待ち受けていたらどうしようとか、もっと楽してなんとかなったのかもしれないだとか、求人の広告に出てくるあの会社やこの業界だったら今どんな気分だっただろうとか、どうしようもないことをもう一度考えさせられる。コラテラル(=巻き添え)で生きていく上で大切なのはなぜ今これを行うのかと自問することだ。そうすることでしか自分のポジションは生まれず前にも進めない。